エルメランはアーサーの嘆願を聞き届け、その温かな掌がエリカの瞼をゆっくりと押し上げた。まだ本来のそれではなかったが、エリカの麗しい顔には確かに生気が感じられた。
「エリカ！」 アーサーは思わず叫ぶと、エリカを抱き締めた。普段の彼からは想像もつかぬほどの、感情的な態度であった。それは言うまでもなく、アーサーという超人的な個人の内におけるエリカ・エーヴリングという女性の占める割りあいを示すものである。かつて、アーサーにこうした思いを抱かせた存在はそう多くはない。
「ここは…。」 力なくエリカは問い、アーサーとブラックホース・ジアザーを交互に見回した。見知った顔であるのを確認して安心したのか、かすかに息を吐き出したのがわかる。
「よかったな、アーサー。」 飾らぬ口調でブラックホースはいい、アーサーの肩を軽くたたいた。彼の顔にも喜びと安堵があふれていた。ブラックホースがこうしたことを言うというのもそうそうあるものではない。彼は常に他人に深くかかわないように心がけているのだ。だが、何といってもアーサーは親友であり、彼の幸福はブラックホースにとっても幸福なのだ。信頼できる仲間とは、こうして幸福をひとつのものとして享受できる者同士なのではないか。
対照的にジアザーは、喜んではいたが、その感情を素直に表に出すことはできなかった。なんといっても、彼のもつ、彼の力の象徴でもある魔法部隊が何の役にも立たなかったのである。威信の問題もさることながら、アーサーに対して申し訳が立たないという気持ちが強いのだ。
「白色魔術団でも何の役にも立てなかった、済まない。」
アーサーはつかの間その言葉を聞いていたが、やがてエリカを離すとだまって首を横に振り、ついで言った。
「いや、ジアザー。充分に力を尽くしてくれたよ、ありがとう。」
「みなさん、私のためにずいぶん危険な橋を渡って下さったようですね、ありが…」
エリカは言葉を最後まで紡ぎ出すことができず、体勢を崩してしまった。アーサーは力強い両腕で即座にそれを支えた。まだ本調子ではないのだ。神の力によって魔力から解放され、ある程度の代謝機能も治癒されたとは言え、やはり失われた気力体力を取り戻すには時間が必要なのだ。誰よりエルメランの僧侶であるアーサー自身がそれを知っている。神の力が万能ではないことを。いや、より正確を期するのなら、神は常に自らの力が万能であるようには見せないことを。
「す、済みません。まだ体が…。」
それだけいうのが精一杯のようだった。エリカは涙を落とし、本当に申し訳なさそうな顔をしている。透き通った涙は、部屋に差し込む秋の夕陽にきらめきながら落ち、アーサーの腕とベッドをぬらした。涙する姿すら美しい。ブラックホースは、なるほどアーサー程の男が選んだだけのことはある、と考えた。慎ましやかで繊細なその仕草は、彼女が力ある魔術師であることなどおよそ感じさせなかった。単に魔力を自慢するだけの、狭量な女魔術師であれば、どれほど美しくとも（たとえそれがエリカ以上の麗人であるとしても）、決してアーサーを振り向かせることはできぬであろう。そしてそれは同時に、これから将来においてもアーサーを振り向かせるに足る女性が現れる可能性がきわめて低いことをも意味していた。
いや、とブラックホースは考える。これほど美しく、飾らず控えめな女性は、まずおるまい。美しいだけならあるいはわからないが、それでアーサーにとって好ましい美しさであるというのはそれこそ神が為し得ない限り有り得まい。そしておそらく、意地悪な神がそんな女性をアーサーに対して差し向けたとして、多分アーサーは彼女を愛することはないだろうと、ひどく確信めいた思いも同時に湧き起こる。アーサーがそんな人物でないのは知っているし、またエリカ自身にもそう思わせる何かが備わっているようだった。ともかく、この二人ほど似合いのカップルもざらにいまい。
「ゆっくりと休むがいい。元気になったらそのときまた話をしよう。今はただ休むことだ。」
アーサーはそう言うと立ち上がり、一度だけエリカを見つめたあと、促すようにジアザーたちを見た。彼らはそうするまでもなく立ち上がり、エリカに軽く会釈をしていた。彼らとしても、これ以上病み上がりの女性のそばにいてその精神の安定を妨げるようなことはしたくない。
「待って！」 エリカはいきなり叫び、そのため3人は一様に驚いて彼女を見た。
「…済みません、大きな声を出して…。あの、アーサー王子…。」
エリカはかすかに頬を朱に染め、アーサーの瞳を数瞬覗きこんだ。そして、意を決したようにそのか細い腕を延ばし、アーサーの手首を掴んだ。アーサーは自分の手首にある細く白い指を見、そこから指の所有者へと視線を移し、ついでブラックホースらを仰ぎ見た。彼らは察し良くすでに扉を開けた所だった。おそらくこれから起こりうることについて、彼らなりの結論に達したのだろう。一人アーサーだけが、妙に浮ついた気分になっていた。まるで女性に腕をつかまれたのが初めてだとでも言うように。
「彼女が眠るまでの間、見ていた方がいいだろう、アーサー。我々はみんなにことの次第を報告しにいく。」
そういうとジアザーは後ろ手にオーク材の扉を閉め、ブラックホースと連れ立って部屋を離れた。規則正しい足音が鳴り響いたが、やがてそれも小さくなっていき、ついには聞こえなくなった。「エリカ…。」
「ごめんなさい、突然。どうしても聞きたいことがあって…。あの、アーサー。私のこと、覚えていらっしゃいません？」
この突然過ぎる質問にアーサーは些か動転し、きょろきょろと辺りを見回した。しかしもはやブラックホースもジアザーもそこにはおらず、目に入ったのは整然と並べられた家財道具や壁にかかったイングリスら名匠の絵画、そして机に置かれた花瓶と水差し、そしてまだベッドに半身を横たえたエリカの姿だけだった。彼を助けてくれるようなものはなにもなかった。
気を落ち着かせるとアーサーはエリカの言葉の意味を考えてみた。だが、よくわからない。覚えて…つまり、すでにどこかで一度、あるいはそれ以上会っているということなのか？ どこかのホーメルト会議で出会ったろうか？ それともどこかの王家との合同会議の席上？ いや、ホーメルト会議に女性が出席することは、女王という身分でもない限りあまり考えられないことだ。ときにはそういう場合もあるが（姫の非公式の御披露目というような意味合いから連れてくるだけだが）、華美を好まぬヨールトン7世は常に身辺質素であり、彼の記憶では会議に皇子、護衛の魔術師や宰相、軍司令などの例外を除いて人を連れ添うことはほとんどなかった。エリカが連れ添われていたことは誓って一度もない。あるいは会議自体に出席していないだけであって、同伴していたのかも知れないが、それでは質問の前提条件である「覚えて」というのと符合しないだろう。合同会議（つまり局所的、臨時的なホーメルト会議）についても同様だった。だいたい、ヨールトン7世はホーメルト会議以外で出会ったことすらない。アーサーがエリカとの婚儀許可を求めて行くまで、アイオリスへ行ったことがないことは言うまでもなかった。
ならば、どこかの祝賀会か園遊会かなにかか？ それならば（表向き）政治駆け引きなしの場所であり、エリカが誰か別の人物（たとえば兄ザナックのような）に連れ添われて出席していたとしても、ありえないことではない。とはいえ彼自身そうした集まりにはさほど出席する方でもない。最近出席したのは記憶している限り1年前のノブルだったが、しかしそこでも、彼女の顔を見た覚えはなかった。そもそも彼女の顔は一目見れば忘れることの方が難しいだろう。
「覚えていらっしゃらないのですね。」 エリカは少々寂し気に言った。
「巨大なイフリートに向かって言って下さいましたわね。『我々は元の世界へ帰る。たとえ二人一緒が無理でも、彼女だけは戻してみせる。お前にそれを止める権利はない』って。私は今まで、ずっとその言葉を胸に生きてきました…。」
その言葉は確かに彼のものであった。彼が語ったものであった。確かにその記憶が、彼の頭の片隅に残っていた。アーサーの頭の中で、記憶の糸をたぐりよせる手がにわかに活気を帯び、時を急速に遡った。はるかな過去。懐かしい思い出や、思い出したくもないさまざまな出来事。そして5年ほども前の、あの体験を思い出すことに成功した。暗い、暗い場所。立ちはだかる気の遠くなるような暗黒。灼熱の炎。落ちて、落ちて、落ちて…。
「あの時の…。」
それだけしか言えなかった。