「一応自己紹介しておこう。オレはブラックホース、エルメランの騎士だ。」
それを聞いたグレイシルヴァーは、なるほど、といった顔をした。
「道理でな、俺様をうならせるほどの剣豪がそんなにごろごろいるはずはない。だがブラックホースというなら納得だ。俺の名前だが、グレイシルヴァーとでも呼んでくれればいい。名前なぞ星の数ほど持っているからな、どれが本名なのかも覚えていない。」
ブラックホースは、ラムサダスが言った言葉を思い出した。大きな力をもってはいけないもの…。表現は異なるが、意味自体はグレイシルヴァーのいっていることと同じであろう。思えば、彼自身が本名を名乗ってはいない。すでに、小さい頃に両親と死に別れた彼がどのようにして本名を知ったかすら忘れてしまった、彼の本名。イワノフ・デミトリオス。ブラックホースの名を知る者で、一体どれだけの人間がこの名前をも知っているのか？
「その剣の腕を、もっと別のことに役立てようとは思わないのか？」
ブラックホースは尋ねずにいられなかった。あれほどの実力があれば、どこの国でも高く用いてくれるはずだ。いや、自らが同志を集めて国を興すこともできよう。暗殺者などという暗い仕事をしないでも、充分に楽しめるはずではないか。
「俺は人を使うのが嫌いだし、使われるのはもっと嫌いだ。一匹狼という言葉があるが、まさにそれだな。それを言うならお前の方こそだろう。お前の仲間の国にでも仕官したらどうなんだ。」
「オレは…オレには役職をもらえるような器量も資格もない。」
そういって翳るブラックホースの顔を見、グレイシルヴァーは何事か言おうとしたかに見えたが、結局そうか、とつぶやいただけだった。
流石にグレイシルヴァーは手慣れたもので、ブラックホースは彼についていくのだけでも一苦労だった。何しろ、物音ひとつ立てずにすいすいと進んでいく。その足取りは夜行性動物もかくやと思わせるほどである。
「おい、少しはこっちのことも考えてくれ。なにせ鎧が重いんだ」
グレイシルヴァーは振り返ると、忌々しげに舌打ちした。が、その後彼の進行速度は少しだけ遅くなった。それでもブラックホースにはうれしかったが、礼を言って素直に喜ぶ人物ではないと判断したので何も言わなかった。
やがて十分も歩いたかと思われたころ、前を歩いていたグレイシルヴァーが突然立ち止まって目配せした。ブラックホースが追いついて小声でどうした、と尋ねると、
「30mくらい向こうに何かいる」
「敵なのか？」
「そこまではわからん。だが危険な香りはしてくるな」
このあたりの感覚はブラックホースにはあまり馴染みのないものだったが、彼が嘘をついているようには思えなかったので剣を抜いて身構えた。が、直後に慌てて歩み出した。グレイシルヴァーが慎重に歩みを再開したのだ。
15mほど進んだところで、ブラックホースにも何かの気配がつかめた。その直後、目標は向こうからこちらに近づいてきた。2体だ、とグレイシルヴァーが言う。ミノタウロスだった。これまでブラックホースが見てきたものより、やや大きめの感があるのはこの洞窟のせいだろうか。いずれにせよ、ここで思うように戦えないのはすぐ想像がついた。ミノタウロスは獲物を認めて吼えた。
「どうする？」 ブラックホースが尋ねる。
「ふん、お前にはこんなところじゃ戦いづらいだろう。俺がひとりでやってやる。」
ブラックホースがなにかを言う前に、グレイシルヴァーは大きく一歩前進してその懐からなにかを取り出して口に運んだ。ぴゅっという何かが風を切る音がする。直後に、ミノタウロスの片割れがくぐもった叫びを発した。吹き矢だ！ すぐにわかった。この恐るべき剣客は、吹き矢さえも身につけているのか。続いてもう一頭からも似たような叫びがあがった。二頭は狂ったようにこちらへ向けて走り出した。
「効いてないんじゃないか!?」
「あわてるな。」
返した当人も一応ショートソードを抜きはなった。しかし必要はなかった。ミノタウロスは二頭とも、彼らの直前で一瞬痙攣を起こし、音を立ててその場に崩れた。彼らの巨大な体に毒がまわったのである。
「かなりの強さだからな、人間なら2秒であの世行きだぜ？」
おもしろそうにグレイシルヴァーは言った。獣とはいえ、死を楽しんでいる。
「…らしいな」
久々に冷や汗をかいた。なんという邪悪さであろう。当人はそんなことはお構いなしといった風であるが、ブラックホースにはやや腹に据えかねた。腐っても聖騎士の身であった。だが現在のところ、エルメランの権威を振りかざして相手を説得している暇はない。少しでも先へ進んで、少しでも早く『仕事』をおわらせねば。それに、相手が説得になど応じるはずもない。そういう人間なのだ。仕方なくブラックホースは諦めることにして、相手よりさきに進みはじめた。
しばらく歩くと、今度は大きな広間になった。洞窟が造られた当時は、おそらく管理者の駐屯地だったのだろう、天然のテーブルがあった。無論数千年前のものであるから生活の痕は残されてはいないが、ブラックホースはなんとなくそこに暖かみを感じた。
「どんな人間が住んでたんだろうな。」
ぽつりとつぶやくブラックホースだったが、言ってからあまり意味がないであろうことに気付いた。案の定グレイシルヴァーは無表情にさあな、と答えただけだった。彼はブラックホースなど気にも止めないかのように一点を見つめていた。ブラックホースも習って見上げると、1mほど上に小さな穴 … といっても子供なら通れそうだ --- が開いている。どうやら新しいものらしい。
「あれがどうしたというんだ？」
グレイシルヴァーは何も答えずにショートソードを抜きはなった。つまり危険があるということだ。ブラックホースにはわからなかったが、そうでもない限りこの男が剣を抜くことはないだろう。自分も従うようにロングソードを抜いた。そして相棒と同様に穴を覗きこむ。
しばらくは、なにも起こらなかった。どこか遠くで水滴の滴る音が規則正しく続いている他は、なんの物音もしなかった。あの水音はどこから聞こえてくるのか？ 彼らの行く手であることは感覚的にわかったが、洞窟に入ってからずっと距離感が狂わされているようだ。グレイシルヴァーなら検討をつけているのだろうか。ことによると商人の言っていた黄金都市の噴水の音かもしれない。これだけ静かな洞窟なのだから、都市が離れていても聞こえてきて不思議はなさそうな気もする。
突如、「それ」が穴から飛び出した。真っ赤なぬめるような体をもった長虫。あまりにも突然すぎて、ブラックホースは受け身をとることができず、長虫の体当たりをまともに喰らってしまった。プレートメイルをつけていなければ、一撃であの世行きだったかも知れない。空気が肺から一気に逆流し、ブラックホースは窒息しそうになった。
グレイシルヴァーは身軽に跳躍すると、その長虫の背中にショートソードを突き立てていた。だが、長虫の動きは止まらない。ブラックホースを直撃した頭部をもたげて、今度はグレイシルヴァーにねらいを定める。グレイシルヴァーは舌打ちすると吹き矢を取り出し、やや焦り気味に2発続けざまに吹き出した。想像以上の大物のため、冷静なグレイシルヴァーでさえ焦っているのだ。
吹き矢は2本とも長虫の分厚い外殻に阻まれて地面に落下した。使い手は早々に吹き矢を懐へ戻すと、ショートソードを右に持ち直し、左手で腰にぶら下げられたダガーを一本抜いた。
「おい！ いつまでも寝ているな！」
ブラックホースに呼びかけた。ひとりでは手に余ると踏んだのであろう。しかし呼びかけられた方はすぐに起きあがれる状態ではなかった。苦しげに胸を押さえている。
その間にグレイシルヴァーは俊敏に動き回ってなんとか長虫との間合いを取った。