ときがひどくゆっくりに流れるような気がする。死に向かうものはみなこう感じるのだろうか。それともこれは、恐怖に対して感覚の麻痺した自分だけなのだろうか。
彼に迷いはなかった。今世界を救うことができるのは自分だけであり、彼の短くも華々しい生涯を閉じるに充分なシチュエーションであった。これほど死と隣り合わせの戦いに継ぐ戦いに恵まれた魔術師も、史上珍しいことであろう。彼は短かった人生を振り返ってもらした。気がかりは家族のことだけだ。彼らに黙ってこの世から消えさってしまう自分。
だが心配はいらない。アザワイズももう二十歳になる。アナザーやジョン、カイドスネスマス、窈湖、その他数え切れない者達の力を借りながら、大事なく国政を運んでくれるだろう。保証はないが、彼にはそう信じられた。単なる親馬鹿であろうか。
やがて、前方に目標の怪物が見えた。今まで遭遇したどんな怪物とも違う。通常考えられる一切の攻撃が意味を為さない。今自分がやろうとしていることも成功する保証はない。だが、それを信じる他ない。この方法を教えてくれたセルミアス・ミルフ…あの緋色の魔導師は、あの赤い超魔導師セイリアンの直弟子である。その彼女が大丈夫というなら、セイリアン自身がそう言っているも同じであろう。
それ自身からは攻撃されないから、ジアザーは至近距離にまでやってきた。そして、地下世界で受け取った封印の壷、表面が今はもう失われているルーン文字でびっしりと埋め尽くされた壺を掲げ持ち、左手でその蓋を取り外す…。
恐らくあの地下世界には、莫大な財宝、鉱物資源が存在することだろう。アーサーやラムサダスなら、すでに調査隊を送り込む手はずを整えているかもしれない。いや、間違いなくそうだろう。自分がその競争に参加できないことは多少惜しまれたが、後を継ぐアザワイズは開明政策に燃えている。まず競争に乗り遅れることはあるまい。
我々が地下世界へ赴いている間に、アーサーの息子アンドリューが、臨時全権としてドバヌール王国を攻め滅ぼしたと聞いた。アーサーの策には、まったく頭が下がる。チャンスは最大限に活かすものということだろう。アマリスはフェルナンドとは友好関係にあるから、しばらくは戦争の心配はあるまい。戦争の心配があるとすれば、それはフェルナンドではなくケルマドやウイレヌ、そしてファームズに対してでる。そして、恐らくアザワイズはケルマドを最初に吸収する。彼には確信に似たものがあった。
「私の息子だからな」
ジアザーは独語すると、精神を集中させて封印を完成させる呪文の詠唱を開始した。この呪文は一度きりである。読んだそばからその壷からルーン文字が消えさっていくのである。そして何より、この魔法の力の源泉は魔力だけではない。彼自身の生命力なのである。巨大な敵を封印するにはそれだけ大きな力がいる。彼の持つ魔力と生命力すべてを用いて、この巨大な怪物を封印するのだ。
呪文は朗々と続き、抑揚が激しくなってくる。呪文の完成が刻一刻と近づくのである。やがて、詠唱の開始から20分が経とうというとき、壺の周囲にたくさんの光の球が生まれた。その光はだんだんと強まっていき、掲げ持ったジアザーの目を射貫いた。皮膚が焼ける匂いが立ちこめる。眼球が焼かれ、視界が急速に弱くなる。喉も焼け始めている。それでもジアザーは詠唱を止めない。全身を駆け巡る痛みを意思の力で完璧に無視し、呪文の最後の一節をよどみなく詠唱した。
壺の周囲の光が爆発し、ジアザーの首と右手が消し飛んだ。それと同時に、光は網のように広がって怪物を包み込む。怪物はそれでもとくに何も反応を示さなかったが、何者も阻止し得なかったその進行がぴたりと止まり、そして…怪物を包み込んだ光は急激に収縮しながら、地面に落下していた壺の中へと入った。ジアザーの左手が持ったままだった蓋が、いつの間にか壺の口を塞いでいた。
それを見届けたように、かつてジアザー・テレビジョンと呼ばれた人間の黒々とした骸がゆっくりと倒れる。大地は、静けさを取り戻した。
やがてそこへ、空から一条の光が降り注いだ。その光が当たった場所…ジアザーの骸の傍らに、長い銀髪を持つ美しい男が立った。エルメランが右手を一振りすると、ジアザーの骸からすべての傷が取り払われ、顔と右手も修復された。その顔は、ことを無し終えて安堵するかのように柔らかなものだった。さらにエルメランが右手を動かすと、ジアザーの骸が浮かび上がる。そしてエルメランが呟く。「お前の行為は、今後1,000年は語り継がれるだろう」。エルメランとジアザーは、ゆっくりと消えた。