彼女がその魔法を成功させたことに、師であるアラート・サイクスは大きな喜びと、同じくらいの衝撃を感じていた。この少女は、まだたった15の年でありながら、彼でさえ14回の失敗を繰り返した「火球(ファイア・ボール)」の呪文をただの一度でやりとげたのだ。
彼はやや間を置いて呼吸を整えると、彼の弟子に語りかけた。
「よくやったぞ、シェリー。すばらしい出来だ。まさか一度で成功するとは私でさえ思わなかった。」
「いえ、先生のご教授の賜ですわ。」
シェリーと呼ばれたその少女は、控えめに答えた。
シェリー・ミュリエル・イングリス。それが彼女の名前だった。その父親は若き万能の天才として知られるジョディ・ファリアル・イングリス。そして、彼女ご自慢の「お兄さま」は、帝国陸軍に所属する天才剣士、フレデリック・ファリアル・イングリス。
彼女の師であるサイクスは、帝国魔法使い部隊・雷光魔術団において、通しの番号こそ22であるが、その魔力は主席であるロニー・ペンローズさえも陵駕するほどの大きさである。彼は普段人前でその力を発揮することがないので、周囲の人間のほとんどは、彼の力を真実の1/3程度と見ている。現在生きている人間のうち、真相を知っているのは情報部部長イアン・トルネイオス元帥くらいだろう。元帥はそのため、彼に情報部特殊部員の席を呈した。
サイクスが、そのローブのフードを後ろへと下ろした。流れるような美しい銀の長髪が現れた。そして、すれ違う異性を振り向かせずにいられない程の、その容貌。古代ライトネアの彫刻家たちが、己の腕の未熟さを呪わずにはおれぬほどの、その静かなる麗顔…。
シェリーはハッとため息をもらした。男としての魅力を感じているわけではないが、自分の師の美しさは認めざるを得ない。どれほどの偶然が、この寒気すら覚えるほどの美貌を作りだしたというのだろう。
だが、彼女はまた師の実年齢も知っていた。彼が今年で72歳になること、若さは大いなる魔力をもって保っていることを。それは果たして正しい事なのだろうか？ 神の授けたもうた「老い」の摂理を、神ならぬ身で犯しているということは？
彼女には答えることはできなかった。いや、本当は答えたくなかったのかも知れない。師には及ばないにしろ、彼女もすばらしいといえる美しさをもった存在であった。そして、それを自覚してもいた。あと20年程もすれば、この麗しさは損なわれ始めるだろう。もし、本当に「老い」を与えたのが神々だとするのなら、神は悪魔よりも残酷なのではなかろうか？
「違う…。」
彼女は我知らず声に出して否定していた。若さは、生命は短い。短いと感じられるほどの刹那なのだ。しかし、なればこそ生命は貴重なものであり、崇高なものなのだ。人が、その短い一生を積み重ね、かくも様々な文明を築いてきた。彼らは命が貴いものであることを知っていたのだ。
「なにがだい？ シェリー、我が愛しき弟子よ。」
師に訊ねられ、彼女ははじめて自分が疑問を実声で否定したのがわかった。
「いえ、何でもありませんわ。」
「さて、そろそろ中へ戻ろう。昨日の続きが残っているだろう。」
そういって、師は返事を待たずに歩み去った。彼女は思い出した。アマリス帝国・白色魔術団の研究である。かの国の強力な魔術師集団。実力・統合された組織力などは、各国が高く評価し、かつ恐れている。
「はい、先生。」
彼女は答えて師の後を追った。
…さて、このまま続けば、このお話は単なるスポコンの従兄弟という程度の物でしかなくなる。しかしそうはならぬのがこの物語の物語たる所以である。
サイクスは、机に座るなりシェリーの小さな掌を取った。そしてのたもうたのである。
「シェリー、無事で良かった。あの魔法は失敗すると、触媒の影響で真っ黒に焦げ付いてしまうのだよ。命に別状はないが、この手が真っ黒になってしまうことなど、私には想像できない…。」
「センセ…。」
「おまえを愛しいと思うからこそなのだよ、シェリー。その金糸を月光で編み上げたような、軽やかな髪が、台無しになるかもしれなかったのだ…。」 そういってシェリーの髪の毛をすくいあげる。
「センセ、いいですか？」 シェリーの顔がひきつっているのがわかる。
「シェリーよ、我が魂のごとく愛しきものよ、さあ、無事を確認するために、その衣を解いていいだろう？」
「後にして下さい、勉強が…。」
いよいよひきつるシェリー。ともすれば叫び出しそうな印象すら受けるほどである。
「そんなことなどどうでもよい。おまえのすみずみまで私が見てあげるから、さあ…。」
「・・・。」
シェリーはもちろん従わない。師はなおも彼女の手を握りしめている。彼女は天を仰いだ。師は、美しい少女が大好きなのだ。そして、彼女達を口説いていると、師は他のあらゆるものが見えなくなるのだ。
並の少女なら喜んでその魅惑の虜になるであろう接触…。しかし彼女は違った。師の美貌をはねつけてきた。なぜなら、師が「変態」と銘打てるとすれば、彼女にも充分にその資格があったからである。
「センセ、お兄様が参りますわ。」
それまで周囲が見えていなかったサイクスに、微妙な変化が現れた。彼女の手を離し、その手を自分の顔に当てる。ふっと息を吐き、今度は両手を広げ、「何故なんだ」といった仕草をする。
「シェリー、愛しき者よ。何故それほど『お兄様』にこだわるのだ。私を彼と比較し、どのような点で劣っているというのだ。知識、美貌、経験、言葉の流麗さ、声の神秘的な美しさ、どれを取っても勝負は目に見えているではないか。」
「ええ、それから『自制心の欠如度』も勝っておりますわ。」
「…おまえは私に抱かれたいとは思わないのか？」
「何度も申し上げたはずですわ。」
「少しも？」
「小指の先ほども。」
サイクスは再びため息をつき、何事かぶつぶつと呟いた。そして、徐にその顔を窓へと向け、ついて歩いていった。彼は窓辺に手を付いて、長々と屋外を眺めている。常なることではないが、ままあることである。
シェリーはこれ幸いと忍び足で玄関へと向かい、扉の音を立てないよう気をつけながら、小鳥の鳴き始めた3月の野へと駆け出した。