セルミアスが溜め込んでいた資産は、セイリアンに弟子入りした後手を付けられることはなかった。そもそもセルミアスはその存在を忘れてしまっていた。お金に困らなくなっていたし、セイリアンが弟子の生活費や活動費も自身の資産で賄っていたからである。それが再び使われたのは、彼女がファーランドの市長になってしばらくしてからである。
ファーランドは多くの魔術師を抱え、彼らの作り出す魔法の物品を売って様々なものを購入していた。ただし、その取引はあくまで個人間であり、中には生計が成り立たない者もいた。セルミアスは市長になると、市長公邸となった自宅の隣の土地を買い上げた。そして魔術師や僧侶、バードら市民が作ったものを中心に、木工や農作物などあらゆるもの（帝国および街の法で禁止された物品を除き）を自由に売買できる市営の取引所を開設した。価格設定や需要予測、帳簿管理などそれぞれ専門のスタッフを取り揃えた。セルミアスがかつての同僚を参考にしたことは言うまでもなく、中でもチーフとなったのは混沌戦争その他の厄災を生き延びていたかつてのアブドゥルのスタッフの一人であった。ファーランドに住む申し訳程度の魔術師だった彼は、市長が変装を解いた元同僚だと知ったときには腰を抜かさんばかりに驚いたし、その素顔を知るや、よくも騙し仰せたものだねとか、儂がもっと若ければなどと言ったものである。
セルミアスは、取引所への物品提供者にその内容や量に応じて毎月最低限の支払いを保証し、逆に管理費その他の名目で支払い上限を設けた。当初は困窮した魔術師らの手になるものばかりで大した売上もなく、赤字続きだった。セイリアンから引き継いだ資産を取り崩して人件費と保証額を補填したが、いつまでも続くものではなかった。長老連は、街の資金はたかが知れており売れない連中を助ける余裕はないと反対した。ある老魔術師は、情け容赦のない物言いで何度もセルミアスを涙ぐませ、その度に気まずい表情を浮かべてはこれだから女はなどとブツブツ呟き、立ち去ることになった。セルミアスは反論せず執務終了後に自室の枕を濡らしていた。
長老たちほどはっきりとは口にしないまでも、側近の中にもこの活動は無駄ではないかと訝しむ者がいた。セルミアス自身何度も失敗ではないか、やめるべきではないかと落ち込んだが、請われたとは言え市長になったからには街のためになることをしたかった。「白きルーンの都」などと称される割に陰鬱でよそよそしく、優しさの感じられないこの街を、自分のことしか考えずろくに会話もしない多くの怠惰な魔術師たちを、何とかしたかった。
一度だけ、セルミアスが怒りを見せたことがある。それは、腕は良いが自信過剰なある魔術師が、これだけ無能ななら師匠も推して知るべしだと面と向かって言った時だった。実際にセイリアンに会ったことのある長老が彼を諌めようとしたが、口を開きかけた瞬間に圧倒的な魔力を叩きつけられ、二人とも床に倒された。人を傷つけたくないので今すぐ立ち去ってくださいという抑えた声が聞こえると、魔術師はこの世の終わりを見たような表情を浮かべて瞬間移動した。取り乱して呪文をまともに口にできず、三度目でようやく詠唱を完了させて。彼は二度と街に現れなかった。
そうして一年が過ぎた頃、セルミアスは突然アブドゥルから得た給金を預けていた口座の存在を思い出した。セイリアンの元でお金の心配をする必要がなかったとは言え、そんなものを忘れているとはやはり自分は無能だろうなどと考えながら、ファーランドの支店を訪ねて状況を確認した。15年以上休眠していたその口座に預けられていたのは信じられないほどの金額で、銀行の職員が何らかの不正を疑ったほどだった。当時も預けるばかりで残高など気にしたことがなかったが、振込が途絶えても確実に利子がつき、倍程度に膨れ上がっていた。
潤沢な資金を得たセルミアスは、最低保証額を倍にするという賭けに出た。すると、今まで様子見をしていた魔術師たち（一人でも売れる者たち）の一部がその額に興味を示し、物品を提供し始めた。それが口伝てに広まったことで取引所を訪れる客は数ヶ月で数倍に膨れ上がり、それがまた新たな物品提供者を喚ぶという好循環が生まれた。複数の魔術師が同じものを提供することで供給が安定したし、誰それの品が良い出来だという話が出ればそれ以外の者が質の向上を目指すという流れも起きた。供給元を特定の個人に頼ることに危険を覚える客も少なくなかったため、比較検討は容易に発生したのである。取引所を発信源としてあっという間に比較情報が出回るため、素人を騙して粗悪品を売っていた魔術師も補償額で遊んではいられなくなった。放置すれば本業にも影響を与えかねないためで、悪い噂を払拭するために本気で取り組むか、または街を去るしか無くなった。食料品その他を含めて日々の取引量は膨大になり、スタッフを増員せざるを得ないほどだった。取引量の増加に伴って当然トラブルも増えて行ったが、何より人と人とが言葉を交わすようになった。職業や年齢性別を問わない会話が日々行われるようになった。ファーランドの街は、ほんの数ヶ月でかつてない賑わいを見せるまでに変貌した。口座からの出金は最初の数ヶ月だけであり、忘れていた期間に殖えた利子にも届いていなかった。
長老連は手のひらを返したようにセルミアスを絶賛し始めた。神の子などと言う者もいた。一番信じられなかったのセルミアス自身だったのだが。